久しぶりに自転車に乗る機会があった。
夏の夕方。ホテルにチェックインしようと仕事で疲れた足をひきづってフロントへ行くと先に到着していたお客さんが自転車のカギをかりていた。その光景をぼんやり見ているとき壁に「レンタルサイクル」の古びたポスターが貼ってあることに気づいた。
駅や繁華街から少し離れた安価なビジネスホテルが宿泊者のことを考えたサービスだろう。ホテルのおじさんに話を訊いたところ、無料で貸し出ししているという。
私は部屋に荷物を預けてから、財布をポケットに入れてレンタルサイクルをかりた。
一階の自転車置き場には古びた自転車が10台ほどおかれていた。私は借りたカギの番号と自転車に黒のマジックで書かれている番号を照らし合わせていく。
あった。
それはお世辞にもきれいでかっこいい今時の自転車とは言い難かった。ハンドル前方に錆びたカゴがついていて、前輪と後輪をつなぐフレームはまっすぐではなく湾曲している。そして赤い。
まごうことなきママチャリである。
そいつのサドルをつかみ後輪を地面から上げる。
ぎゅうぎゅうに置かれている自転車置き場からひっぱりだして、あらためてカギを手にとった。
カギはオーソドックスなものだった。後輪の上部に固定されている輪っかがタイヤの隙間をとおして固定されている。鍵穴にカギをさしこんで回せば外れるはずだ。
私が子どもの頃につかっていた自転車と同じタイプのカギだ。懐かしさを感じながら、鍵穴にカギを差し込む。回す。右にまわすのか左にまわすのか。どっちだったか忘れたので、てきとうにガチャガチャやると「カシュッ」とマヌケな音をだして外れてくれた。
よし、いよいよ出発だ。
そう思って後輪のスタンドを足で軽く蹴る。蹴る。蹴る。
上に跳ねない。地面と車輪を固定して、掴んで離さないスタンド。昔からこれどういう仕組みかわからなくて苦手だったんだよなあと苦笑して、おちついてハンドルを前に押しつつスタンドを軽く後に蹴ると「ストン」とタイヤが地面についてくれた。
今度こそ出発だ。私は自転車にまたがり、右足でペダルを踏んだ。自転車が前に進む。
「おお……おお!」
私は声をあげた。右、左、右、左……とペダルをこいでいく。振動が体にひびく。ハンドルをまげればそちらに自転車がすすむ。風が。
歩いているときや車に乗っているときには感じない、風、というよりも空気がぶつかってくるあの感覚。
私は久しぶりに自転車に乗った。
くだり坂では足を休め、傾斜を登るときはえっちらおっちらこいで進む。仕事で足は疲れている。でも、まったく気にならなかった。
そんな私の様子を知ってか知らずか、小さな子どもたちが後から自転車で追い越していく。ゆっくりと走る私とは対照的に、彼らはどんどんペダルをまわして先にいってしまう。
ピカピカのヘルメットにピカピカの自転車。きっと切り替えなんかもついているのだろう。追い越されるときに声がした。みんなで会話しながら走っている。
そんな彼らの後姿を見ながら、私はうっすらと思い出した。
友達同士でいっしょに自転車をこぎながら目的地にむかうあの感覚。
あのときはみんなで自転車をこいでいた。みんなで集まって、みんなで移動して、途中、調子にのって手放し運転するやつもいたし、体力がなくて集団から遅れるやつもいた。そいつをみんなで待つ間に水分を補給したり、いろんなくだらない話をした。大きな野良犬に遭遇して、全力でペダルをまわしたり、大きな下り坂をくだるとき、バカみたいな声をだして、とにかく走った。笑いながら走った。
横断歩道の信号が赤に変わった。私は歩道前でブレーキをして、ペダルから足を地面におろした。
懐かしいなと思った。そして私には、もうそんな走り方はできないんだなと思った。
今でこそ自転車よりも大きな自動車を運転しているけれど、あのときは「大人は車を運転して楽してどこにでも行けるからいいよな」なんて思っていたけれど、今の私は彼らが心底うらやましい。小さい子どもたちに憧れてしまう。
私はこれからこの自転車でコンビニにむかう。そして夕食の弁当を買って、ホテルの部屋にもどり一人でそれを食べるのだ。
なにも思うところはない。なにも思うところはないんだぜ。
夏の夕方、コンビニからでた景色は赤く染まっていた。自転車は赤に磨きがかかっていた。弁当を錆びたカゴに入れる。カギとスタンドを、今度はうまく外すことができた。ゆっくりとペダルを踏みしめる。
振動でカゴに入った弁当が揺れる。
かまうことは、ない。
私は久しぶりに自転車で立ちこぎをした。その横の道路を自動車が走りぬけていった。
おまけ
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