その日の夜、仕事から帰った私は、実家の風呂場の湯船に沈んでいた。
タイルのちりばめられた浴室は、換気扇さえ回していなかったので無音だった。
そのかわり、白い湯気が充満している。
指の先はすでにしわしわにふやけていて、体がお湯に溶けていた。
濡れた頭をユニットバスの縁にあずけて、天井へむかう煙を見ながら寝そべっていた。
……
風呂が、好きだ。
とくにぬるま湯の、丁度良い温度が最高だ。
熱すぎたら入ることができないし、ぬるすぎてもいけない。丁度良い温度の液体につつまれたなら、そのまま口を開けて、何時間でも浸っていられる。
それと同じ理屈だろうか。
私は布団の中も好きだ。一日の終わりに、ふかふかの布団で眠ることができる。それこそが、一番幸せな時間かもしれない。そこにうちで飼っている猫がいっしょに寝てくれたなら、もう言うことはないんだ。
それと同じ法則だろうか。
私はコタツも好きだ。寒い部屋の中で、コタツは私を暖かくしてくれる。コタツに入りながら、パソコンをたたいて文字を打つ。今すぐにでも打つ手をとめて、コタツの中へすべりこませたい気分さ。
そんな、適当なことを考えていたかもしれないし、考えていなかったかもしれない。
いったいいくら湯船に浸かっていただろう。
ふと、外からたどたどしいピアノの旋律が流れてきた。
私の実家は田舎で、隣接されている家と家の間が広い。
お風呂場は家の敷地の端っこにあるが、それでも外からは何も聞こえない静かな空間だ。
それでもたまに、こうしてたどたどしいピアノの音が漏れてくる。
流れるように弾かれていると思ったら、つまずき、そして何事もなかったかのように、再開される演奏。
それらをくり返し聴いているうちに弾いている楽曲が気になってきた。
どこかで聴いたことがあるような気がする。
最初は「kiroro(キロロ)」かな? と思った。 みずみずしく跳ねる音、それと対比するように淡々と紡いでいくメロディー。
目をつむって、耳をすます。
……あぁ、思い出した。
この曲は 「旅立ちの日に」だ。
おそらく、お隣さんの娘さんが弾いているのだと思う。たしか、中学生ではなかったか。私が慌てて出勤する時間帯に、すれちがったことがあったかもしれない。
話したこともないけれど、きっとそうだ。
そこで今、季節が2月ということに思い当たった。
3月には卒業式がある。私も通った中学校では卒業式にこの曲を歌うのだ。
もしかしたら、お隣の娘さんは卒業生を代表して、全校生徒や教師、父兄の前でこの曲を伴奏するのかもしれない。
何年前だろう。私も、私の学年の代表者の伴奏に合わせてこの曲を歌ったんだった。
……たどたどしい演奏を聴きながら、思うことがあった。
呆けた頭で、思うことがあった。
ふやけた体で思うことがあった。
私は風呂が好きだ。布団も好きだ。コタツも好きだ。
冬の風呂場は湯船をでれば寒いし、朝早く布団から出ると寒いし、コタツからトイレへと立ち上がると寒い。
だから、いつまでもその場でぬくぬく縮こまって、時をすごすのだ。
……本当は「好き」ではなく寒さに負けて、ただ出られずに考えることをやめて先延ばしにしているだけかもしれない。
「実家」もそういうものではないだろうか。
数年前に学校を卒業してから、今なお、私は実家にいる。
実家から、職場に通勤している。出張はするけれど、休みにはスーツケースを抱えて必ず帰宅する。
家族も職場の人たちも、みんないい人達だ。「風呂」、「布団」、「コタツ」と同列に「家族」も「職場の人」も好きだ。
地元にのこっている気心の知れた友人もいるし、ストレスなんて、なにもない。
ただ、毎月の賃金が少しばかり少ないことを除けば……
おそらく、今いただいている賃金だと結婚はできないだろう。まして、私はアラサーだ。
このまま「好き」に浸り続けていいのだろうか。新しい「好き」を無理に見つけにいかなくてもいいのだろうか。
現在、転職活動をして、運が良いことに内定をもらえそうな企業がある。
賃金も私にとって、「なんとか結婚生活できるのではないか」と思えるくらいいただけそうだ。
ただし、勤務地が遠方にあり、実家を離れなければいけないし、もっと言えば「転勤」が発生してしまい実家に戻ることが数年に一度となりかねない。
転職の不安を上げれば、キリがない。今までのように、うまく仕事ができるだろうか。ノルマをこなせるだろうか。続けることができるだろうか。ひとり暮らしの食生活は大丈夫だろうか。朝寝過ごして遅刻してしまわないだろうか……
両親をのこして、外にでてもいいのだろうか。
……いつのまにか、ピアノの音はきこえなくなっていた。
充満していた湯気は、すでに消えている。
冷めた湯船の中で、私は大きくくしゃみをした。